2011年11月10日木曜日

1Q84

この長編の〈Book1〉と〈Book2〉では、青豆と天吾の物語が交互に語られる形で進行していく。〈Book3〉では、この2人にさらに私立探偵の牛河が加わり、3つの物語が同時に進行しながら展開する。

〈Book2〉まではスリルとサスペンスにあふれたスピーディーな展開だが、探偵が加わってからは、ゆっくりと進んでいく。全体を通して、物語の背景には無音の世界が広がる。そこからは、これまでの村上の作品とは違い、歌や音楽も消されている。何かが何かに向かって一歩ずつ静かに進んでいる。

タクシーで仕事に急ぐ青豆は首都高で渋滞に巻き込まれ、非常階段を使って一般道に降り、そこから電車に乗り換えようとする。物語はここから始まるが、このとき彼女が降り立った世界は、現実の「1984年」ではなく、もうひとつの別の世界である「1Q84年」であった。

いわゆるパラレル・ワールドの物語ということになるが、〈Book3〉の結末では、それが単に並行世界ではなく、さらに複雑な多重世界に入りこんでしまったかもしれないという暗示を残して終わる。青豆にはスポーツ・インストラクターの仕事以外の別の顔がある。それはまさに「必殺仕事人」さながらの殺人請負人としての顔である。

一方、天吾は予備校の数学講師をしながら小説家を目指している。彼は親しい編集者の企画で、ふかえりという17歳の少女の文学賞応募作品『空気さなぎ』を書き換える仕事を請け負うことになる。その結果この作品は賞を取り、ベストセラーとなる。

別々に進行する2人の物語だが、青豆と天吾は小学生の時に同級生であった。ある時、両親が証人会の信者であるために、いじめにあっていた青豆を天吾が助ける。2人は無言で手を握り合うのだが、このことがこの作品の核となり、最後まで1本の線として途切れずに続いていくことになる。

当時2人は10歳であった。天吾は日曜日になるとNHKの集金人である父の仕事で連れまわされ、そのことが嫌でたまらなかった。青豆も両親の布教活動に連れられて日曜日がつぶれてしまうという共通点があった。しかし、その後2人はこうした親と決別し、自分の道を切り開こうとする。そうして20年の歳月が流れ、運命は2人を再会に向けて1歩ずつ近づけていく。

天吾がゴーストライターを務めたふかえりの父親は宗教法人「さきがけ」のリーダーであり、この男を青豆がある老夫人の要請により殺害することとなる。こうして彼女は「さきがけ」から追われる身となる。また、ふかえりが描いた世界はこの閉鎖的な宗教法人の秘密であるリトル・ピープルのことを世間に暴く内容であり、天吾も同様に「さきがけ」の敵となる。

探偵の牛河は「さきがけ」に雇われて2人を追うこととなる。青豆は「さきがけ」のリーダーに、天吾を救うためには自分自身が死を覚悟しなければならないと告げられていたが、最終的に自殺を思い留まる理由は彼女のお腹には天吾の子どもがいることがわかるからである。2人は交わることなく、新たな命が宿るのだ。

受胎告知的な進展だが、彼女はこの命が天吾の子であると確信する。おそらくふかえりを通して、この命は芽生えたようだ。この命の声に従い、青豆は生きることを選ぶのだ。最後に2人は20年ぶりの再会を果たし、青豆が降りた首都高の非常階段を逆に昇ることで、もとの世界に戻ったようだ。

しかし、それがほんとうに「1984年」であるかどうかはまだ分からない。2人はさらにまた別の世界へと迷い込んだ可能性も残されている。

2011年11月6日日曜日

アフターダーク

作家生活25周年を記念する書き下ろし長編小説。
この作品の舞台は大都市そのものであり、しかも真夜中から夜明けまでの物語だ。まさに村上の得意とする都市小説だが、これまでとは何かが違う。まず、「僕」はもはや登場しないこと、そして、物語の舞台が渋谷に限定されており、非常に閉塞的な感じが強い。

また、これまでの村上作品世界の顕著な特徴である2つの世界の区分がはっきりと描かれていない。さらに、断片的な事象が最後に1本の線としてつながっていくこともない。いや、正確に言うと、そのつながり方が不明瞭なのだ。その点において、読後感が今ひとつすっきりしない。村上ワールドのこれまでのモチーフはすべて網羅されているといってよい。

孤独、喪失、などなど。それなのに、それらが断片的に提示されているだけで、読者としては戸惑いを隠せないまま物語は進んでいく。しかし、よく読むと、あるいは、読者が断片を上手くつむぎ合わせることができれば、1つのことが形を成してくる。この作品の大きなテーマの一つは「眠り」についてである。

ひたすら眠り続けるマリの姉。本来人々が眠っているべき時間である夜に活動している人々が描かれている中、この悌眠り続ける女性は対照的だ。眠るべき時に眠らない、あるいは眠れない人たち。逆に起きているべきときにも眠り続けている人。ここにも明確な境界線の消失が見て取れる。マリと同様、われわれは深い眠りへの渇望を抱きつつも、なかなかそれを実現できないでいる。どこかで常に覚醒している自分があるのだ。まさに大都市の夜が眠りにつかないのと同様に。

そしてもう1つのテーマは、夜という箱に閉じ込められている人々である。地震で瓦礫の下に閉じ込められたように、狭い暗闇に閉じ込められる感覚が、現代の大都会に生きる若者たちの感覚とぴったり一致しているような気がする。夜という暗闇の中に閉じ込められている人々の生態を描いているとも言えそうだ。

「深海の生物たち」というタイトルの自然記録番組のことがさりげなく描かれているが、これは象徴的なタイトルだ。まさに大都市の夜に覚醒している人々そのものである。そこには言葉はなく、静かな光景があるだけだ。事実、エリとマリの姉妹には子供のころにエレベーターに閉じ込められた経験がある。ただ、恐怖の中、そこには1つの「一体感」があった。それは2度と戻らなかったとマリは言うが、この深い夜の海の中で、姉を知っているという高橋に始まり、何人かの人々との交流を体験する。

中国人の娼婦との触れ合い、そして、どんな記憶もそれは生きるための燃料だというラブホテルの従業員の言葉。こうした中で彼女は少しずつ眠りの世界へと誘われていく。「短いけれど深い眠り。それは彼女が長いあいだ求めていたものだ」。こうしてマリはもう1度姉との一体感を取り戻す可能性を得る。

姉の呼ぶ声が聞こえる。夜明けとともに、エリに変化が起こる、「エリの小さな唇が、何かに反応したように微かに動く。……今の震えは、来るべき何かのささやかな胎動であるのかもしれない。……意識の微かな隙間を抜けて、何かがこちら側にしるしを送ろうとしている。……私たちはその予兆が、ほかの企みに妨げられることなく、朝の新しい光の中で時間をかけて膨らんでいくのを、注意深くひそやかに見守ろうとする。夜はようやく明けたばかりだ」。

また夜が来る前に、われわれは何かを取り戻さなければならない。それはいつまた失われてしまうかもしれない。われわれは「どこまで逃げても逃げられない」のかもしれない。昼の光はほんの一時的なものにしか過ぎないのかもしれない。でも、それもまた生きていくための燃料となるはずだ、「次の闇が訪れるまでに、まだ時間はある」。

この『アフターダーク』から村上世界は第三期に入ったと考えてよいだろう。