タイトルはビーチ・ボーイズの歌から取られている。『羊をめぐる冒険』の続編といえる長編である。
主人公の「僕」は34歳で離婚歴がある。PR雑誌のようなものに原稿を書いて生計を立てている。「僕」は自己の探求のために、札幌に旅をする。しかしそこにはもうあの「いるかホテル」はなかった。名前は「ドルフィン・ホテル」となり、それは近代的な高層ホテルに変身していたのだ。
「僕」はそのホテルに滞在しているあいだに、フロントの女性と知り合い、人生で失いかけていた精神的高揚が取り戻せるかもしれないという期待が膨らんでくる。彼女からホテルの暗闇の中での体験を聞かされた「僕」は何かを感じ取り、その場所に出かけていく。
そこで彼を待っていたのは、あの「羊男」であった。久しぶりに彼との再会を果たした「僕」は、「羊男」にいろんな話をする。「僕」はもう人を真剣に愛せなくなってしまい、もうどこにも行くことができないし、何を求めればいいのかもわからない、といったようなことを。
それに対して「羊男」は次のように説明する。「僕」は「いるかホテル」に含まれていて、すべてはここに始まり、すべてはここに終わる。「僕」はここにつながれている。「羊男」の役目は、「僕」が求め、手に入れたものを配電盤のようにつなげることだ。この場所は結び目なのだ。うまくいくかどうかはわからないが、とにかく「羊男」は「僕」のためにつなげる努力をしてくれる。
そして「僕」にできることは踊ること。何も考えずにただできるだけうまく踊ること。まさに、「ダンス・ダンス・ダンス」だ。こうして「僕」は、失われたものを再び取り戻そうと、東京からホノルルまで再生のための旅を続ける。
この間、「僕」にはストーリーの鍵となる様々な女性との出会いがある。13歳のユキという少女。そして彼女の母親のアメ。コールガールのメイ。かつて札幌で「僕」の前から姿を消したキキという女の子。
特にユキは、札幌で偶然に知り合い、東京まで連れて帰ることになるのだが、霊的な能力を持つこの少女は、物語の展開上、重要な役割を果たしている。ホノルルでキキを追って迷い込んだ場所で、「僕」は6つの白骨に出くわす。その後、「僕」の周囲で次々と死人が出る。「僕」が探し続けていたキキを殺したのは、「僕」の中学時代の友人で映画俳優の五反田君だとユキに言われ、「僕」は彼に真相を問いただす。その後、彼は車ごと海に飛び込んでしまう。
様々な喪失と絶望を乗り越えて、最後に「僕」は再び札幌へと向かう。ホテルで知り合ったユミヨシさんに会うためだ。彼女との交流の中で、「僕」は再び心の平和を回復していく。「ユミヨシさん、朝だ」という最後のせりふは、とてもさわやかで印象的な言葉だ。
過去の3部作が70年台を舞台にしていたのに対し、この作品ではそれが80年代に移行している。『ノルウェイの森』など、それまでの作品とは違い、主人公は最後に長いトンネルを抜けようやく1つの光を見たようだ。ここで、第1期村上春樹の世界は完結し、『TVピープル』を挟んで、第2期に突入する。
2011年10月29日土曜日
2011年10月28日金曜日
ノルウェイの森
37歳になった主人公のワタナベトオルが、ボーイング747機でハンブルク空港に到着するところからこの物語は始まる。
しかし、この飛行機はどこからやってきたのかわからない。読者は、それがどこの空港から飛んできたのかを知らされないのだ。
またなぜ、ハンブルクに来たのかさえ知らされることはない。そしてこのジャンボ・ジェットが到着すると同時に、われわれは主人公の回想の世界へと誘い込まれていく。
時代は1969年までさかのぼり、これがワタナベトオルとそのガールフレンド、直子の物語であることを知らされる。こうしてストーリーはフラッシュバック形式で展開していく。ワタナベが大学に入ってまもなく、高校時代からの知り合いである直子に電車の中で偶然再会する。彼女はワタナベの友人であったキズキのガールフレンドだったが、彼は高校生のときに自殺していた。
ワタナベと直子は東京でデートを重ねるようになり、彼女の20歳の誕生日に2人は結ばれる。しかしその直後に直子は姿を消してしまう。しばらくたってワタナベは直子から手紙を受けとり、彼女が精神的に病んでおり、今は京都の山の中にある療養所に入っていることを知らされる。
ワタナベは直子に関する事実を知ったころ、緑という女の子と大学のキャンパスで知り合う。彼女は若くて瑞々しく、活力にあふれる女性で、直子とはまさに正反対であった。
この後、ワタナベは二人の女性の間で揺れ続けることになる。物語の後半で、ワタナベは最終的に直子をその精神的な病から救いだすことができず、彼女は深い森の中で自らの命を絶ってしまう。苦しんだ挙句にその悲しみから何とか立ち直ったワタナベは、緑に連絡を取ろうとするが、電話ボックスの中で自分の居場所を告げることもできないまま、ただ彼女の名前を呼び続けているのだった。
こうして物語は終わる。
この作品の原型となっているのは、『螢・納屋を焼く・その他の短編』に収められている「螢」という短編である。これが第三章に組み込まれている。(ただし、「彼女」が直子に替わっている)。
このいきさつについて、村上は次のように語っている「僕は昔『螢』という話が書きたくて、さっと書いちゃったんです。で、短編としての出来もそう悪くなかったと思うんです。ただね、語り残した、もっと上手く書けたはずという思いは僕の心の中にずっと残っていたんです。それにケリをつけたいということはずっと思っていたんです。もっと膨らませて、もっと力のあるものにしたい、と。でも(中略)結構かかっちゃったですね、(中略)ケリをつけられるだけの力を蓄えるまでに」(「村上春樹ロング・インタヴユー」、『Par Avion』1988年4月号)。
こうして第一章に物語を過去へと引き戻すための回想のシーンが描かれ、第二章から約20年前に住んでいた学生寮の話が始まり、物語は展開していく。
再び村上の言葉を引用すると「僕は『螢』を何とかふくらませよう、伸ばそうというところから始まっているから、登場人物も後からもってきたわけです。例えば緑なんていうのはまったく出てこなかったし。だから、『螢』が終わった時点からどう話を伸ばそうか、これは相当考えたんですよね。で、緑という女の子のことを思いついたところで話はどんどん進んでいっちゃつた。だから直子という存在の対極にあるというか、対立する存在としての緑を出してきた時点で小説はもうできたようなものだったわけです。あとは永沢くんというちょっと奇妙な人物を出してきた。この3人の設定でうまくいってるんですね」。
こうして物語は、「僕」と直子、そして「僕」と緑という2つの平行した関係を中心に進んでいく。病気療養をしている直子と健全なイメージの緑は対照的な存在である。この2人はそれぞれ「静」と「動」、あるいは「生」と「死」というふうに、村上流の二つの世界を形成している。
そのあいだに、キズキ、レイコ、永沢、そしてハツミという人物が絡まってくる。この作品においてはじめて主人公をはじめ登場人物に名前が与えられることになるが、それは意図的にリアリズム小説を書こうとする以上は仕方のないことであったようだ。
名前がないと3人の会話が書けないという制約が生じるからだ。それは結果的に「物語を進化させていく段階」であったようだが、この作品は村上自身がほんとうに書きたい種類の小説ではないという。
ただリアリズムの文体でも長編が書けるという「確証」がほしかっただけで、今後2度と書くことはないようだ。その最大の理由は、他の小説とは違い、この作品は「あそこで終わっている」もので、作家としても作品としてもそれ以上広がっていく可能性がないから。
読者の中にはあの物語のその後に興味を持っている人もいると思われるが、村上のなかでは終わった作品だということだ。
短篇はともかく、今後われわれが村上によるリアリズムの長編を手にすることはなさそうだ。(『考える人』)大きな話題を呼び、社会現象となったこの作品は、空前のベストセラーとなり、長きにわたって読み継がれてきた。この小説はトラン・アン・ユン監督により映画化された(2010年12月公開)。
しかし、この飛行機はどこからやってきたのかわからない。読者は、それがどこの空港から飛んできたのかを知らされないのだ。
またなぜ、ハンブルクに来たのかさえ知らされることはない。そしてこのジャンボ・ジェットが到着すると同時に、われわれは主人公の回想の世界へと誘い込まれていく。
時代は1969年までさかのぼり、これがワタナベトオルとそのガールフレンド、直子の物語であることを知らされる。こうしてストーリーはフラッシュバック形式で展開していく。ワタナベが大学に入ってまもなく、高校時代からの知り合いである直子に電車の中で偶然再会する。彼女はワタナベの友人であったキズキのガールフレンドだったが、彼は高校生のときに自殺していた。
ワタナベと直子は東京でデートを重ねるようになり、彼女の20歳の誕生日に2人は結ばれる。しかしその直後に直子は姿を消してしまう。しばらくたってワタナベは直子から手紙を受けとり、彼女が精神的に病んでおり、今は京都の山の中にある療養所に入っていることを知らされる。
ワタナベは直子に関する事実を知ったころ、緑という女の子と大学のキャンパスで知り合う。彼女は若くて瑞々しく、活力にあふれる女性で、直子とはまさに正反対であった。
この後、ワタナベは二人の女性の間で揺れ続けることになる。物語の後半で、ワタナベは最終的に直子をその精神的な病から救いだすことができず、彼女は深い森の中で自らの命を絶ってしまう。苦しんだ挙句にその悲しみから何とか立ち直ったワタナベは、緑に連絡を取ろうとするが、電話ボックスの中で自分の居場所を告げることもできないまま、ただ彼女の名前を呼び続けているのだった。
こうして物語は終わる。
この作品の原型となっているのは、『螢・納屋を焼く・その他の短編』に収められている「螢」という短編である。これが第三章に組み込まれている。(ただし、「彼女」が直子に替わっている)。
このいきさつについて、村上は次のように語っている「僕は昔『螢』という話が書きたくて、さっと書いちゃったんです。で、短編としての出来もそう悪くなかったと思うんです。ただね、語り残した、もっと上手く書けたはずという思いは僕の心の中にずっと残っていたんです。それにケリをつけたいということはずっと思っていたんです。もっと膨らませて、もっと力のあるものにしたい、と。でも(中略)結構かかっちゃったですね、(中略)ケリをつけられるだけの力を蓄えるまでに」(「村上春樹ロング・インタヴユー」、『Par Avion』1988年4月号)。
こうして第一章に物語を過去へと引き戻すための回想のシーンが描かれ、第二章から約20年前に住んでいた学生寮の話が始まり、物語は展開していく。
再び村上の言葉を引用すると「僕は『螢』を何とかふくらませよう、伸ばそうというところから始まっているから、登場人物も後からもってきたわけです。例えば緑なんていうのはまったく出てこなかったし。だから、『螢』が終わった時点からどう話を伸ばそうか、これは相当考えたんですよね。で、緑という女の子のことを思いついたところで話はどんどん進んでいっちゃつた。だから直子という存在の対極にあるというか、対立する存在としての緑を出してきた時点で小説はもうできたようなものだったわけです。あとは永沢くんというちょっと奇妙な人物を出してきた。この3人の設定でうまくいってるんですね」。
こうして物語は、「僕」と直子、そして「僕」と緑という2つの平行した関係を中心に進んでいく。病気療養をしている直子と健全なイメージの緑は対照的な存在である。この2人はそれぞれ「静」と「動」、あるいは「生」と「死」というふうに、村上流の二つの世界を形成している。
そのあいだに、キズキ、レイコ、永沢、そしてハツミという人物が絡まってくる。この作品においてはじめて主人公をはじめ登場人物に名前が与えられることになるが、それは意図的にリアリズム小説を書こうとする以上は仕方のないことであったようだ。
名前がないと3人の会話が書けないという制約が生じるからだ。それは結果的に「物語を進化させていく段階」であったようだが、この作品は村上自身がほんとうに書きたい種類の小説ではないという。
ただリアリズムの文体でも長編が書けるという「確証」がほしかっただけで、今後2度と書くことはないようだ。その最大の理由は、他の小説とは違い、この作品は「あそこで終わっている」もので、作家としても作品としてもそれ以上広がっていく可能性がないから。
読者の中にはあの物語のその後に興味を持っている人もいると思われるが、村上のなかでは終わった作品だということだ。
短篇はともかく、今後われわれが村上によるリアリズムの長編を手にすることはなさそうだ。(『考える人』)大きな話題を呼び、社会現象となったこの作品は、空前のベストセラーとなり、長きにわたって読み継がれてきた。この小説はトラン・アン・ユン監督により映画化された(2010年12月公開)。
2011年10月25日火曜日
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
谷崎潤一郎賞受賞作品。2つの物語が同時に進行していく小説。
1つは「世界の終り」で、もう1つは「ハードボイルド・ワンダーランド」。これら2つの世界が交互に語られる形式となっている。
前者の主人公は「僕」で、後者は「私」である。最初はまったく関連性のない2つの違った物語のようであるが、最後にはこれらが見事につながっていく。
「世界の終り」の舞台は、高い壁に囲まれ、外界との接触が絶たれた街であり、「僕」はそこの図書館で一角獣たちの頭骨から古い夢を読んで暮らしている。
「ハードボイルド・ワンダーランド」における「私」は、老科学者によってある思考回路を意識の中に組み込まれており、その回路を巡って次から次へといろいろな事件が起こる。
「世界の終り」が「静」の世界なら、「ハードボイルド・ワンダーランド」は「動」の世界だ。
「私」の冒険は続く。そんな中で「私」は回路の秘密を知ることになるが、それは、「私」にはあとわずかしか時間が残されていないということであった。知らないうちに「私」の世界が終わろうとしているのだ。
また一方、「世界の終り」では、「僕」の脱出計画が進行している。弱った「影」を連れた「僕」はようやく出口に到着する。その向こうには外の世界が広がっている。しかし、自分自身が作り出したこの街に対する責任を取るために、「僕」はそこに残る決心をする。そうして「影」は一人で古い世界へと戻っていく。
この長編は、「街と、その不確かな壁」(『文學界』1980年)が原型となっている作品である。正確に言えば、それは「世界の終り」のほうの原型になっているわけだが、村上自身の言葉によると、本にしないで放りっぱなしにしていたこの作品を何とか書き直したかったということだ。
それがこの長いタイトルの作品に生まれ変わったわけだが、手法としては、2つの物語の「パラレル・ワールド」ということになる。
このように並行世界を描く方法は村上の作品世界の基本をなしているものであり、それは、「存在」と「不在」であり、また「静」と「動」であったりするものである。またさらに「世界の終わり」では、本来一緒でなければならないはずの自分とその影が別々になってしまっている。つまり、自分ともう一つの自分がばらばらになっているのだ。
こうした村上的世界は、この作品においてもっとも明確に表現されていると言ってよい。その技巧的な完成度は極めて高いものだ。その意味においても、すべての作品はこの長編につながると言える。
1つは「世界の終り」で、もう1つは「ハードボイルド・ワンダーランド」。これら2つの世界が交互に語られる形式となっている。
前者の主人公は「僕」で、後者は「私」である。最初はまったく関連性のない2つの違った物語のようであるが、最後にはこれらが見事につながっていく。
「世界の終り」の舞台は、高い壁に囲まれ、外界との接触が絶たれた街であり、「僕」はそこの図書館で一角獣たちの頭骨から古い夢を読んで暮らしている。
「ハードボイルド・ワンダーランド」における「私」は、老科学者によってある思考回路を意識の中に組み込まれており、その回路を巡って次から次へといろいろな事件が起こる。
「世界の終り」が「静」の世界なら、「ハードボイルド・ワンダーランド」は「動」の世界だ。
「私」の冒険は続く。そんな中で「私」は回路の秘密を知ることになるが、それは、「私」にはあとわずかしか時間が残されていないということであった。知らないうちに「私」の世界が終わろうとしているのだ。
また一方、「世界の終り」では、「僕」の脱出計画が進行している。弱った「影」を連れた「僕」はようやく出口に到着する。その向こうには外の世界が広がっている。しかし、自分自身が作り出したこの街に対する責任を取るために、「僕」はそこに残る決心をする。そうして「影」は一人で古い世界へと戻っていく。
この長編は、「街と、その不確かな壁」(『文學界』1980年)が原型となっている作品である。正確に言えば、それは「世界の終り」のほうの原型になっているわけだが、村上自身の言葉によると、本にしないで放りっぱなしにしていたこの作品を何とか書き直したかったということだ。
それがこの長いタイトルの作品に生まれ変わったわけだが、手法としては、2つの物語の「パラレル・ワールド」ということになる。
このように並行世界を描く方法は村上の作品世界の基本をなしているものであり、それは、「存在」と「不在」であり、また「静」と「動」であったりするものである。またさらに「世界の終わり」では、本来一緒でなければならないはずの自分とその影が別々になってしまっている。つまり、自分ともう一つの自分がばらばらになっているのだ。
こうした村上的世界は、この作品においてもっとも明確に表現されていると言ってよい。その技巧的な完成度は極めて高いものだ。その意味においても、すべての作品はこの長編につながると言える。
羊をめぐる冒険
友人と共同で広告会社を経営している「僕」。そんな「僕」の前から、「あなたと一緒にいてももうどこにも行けないのよ」と言って、妻は出て行ってしまう。その後、「僕」は耳のモデルをしている女の子と知り合い、仲よくなる。
ある日、「僕」はPR誌のグラビア・ページに使った写真のことで、右翼の大物の秘書に脅迫をされる羽目に陥る。1カ月以内にその写真に写っている「星形の斑紋」のついた羊を探し出せというのだ。
この写真は行方不明の「鼠」から送られてきたものである。「僕」は耳のモデルの彼女に促され、2人は北海道へと羊の捜索旅行に出かける。1頭の羊をめぐる冒険のはじまりだ。宿泊先の「いるかホテル」で、二人は「羊博士」に出会う。
もと農林省のエリート官僚だったこの老人は、体内に羊が入り込み、「交霊」を体験して「羊つき」となった。しかしその後、羊は右翼の大物の体内に入り込み、博士は「羊抜け」となったのである。この博士から写真の場所を教えてもらった二人は、ホテルを去り、十二滝町へと向かう。探していた牧場にたどりつくと、そこにある別荘は「鼠」の父親のものであったことがわかる。
「僕」はその別荘で「羊男」と出会い、そしてついに闇の中で「鼠」と再会する。「僕」はすでに死んでいる「鼠」と羊の話をする。彼は「僕」が別荘にやってくる一週間前に首をつって死んだのだ。死ぬ直前に彼がしたことは時計のねじを巻くことだった。
「鼠」はその羊に支配されてしまう前にそれを呑み込み、そのまま自殺を図ったのだ。こうして羊をめぐる冒険旅行は終わりを迎える。任務を果たした「僕」がホテルに戻ると、耳のモデルの彼女は消えていた。
「生ある世界」に戻った「僕」は、それがたとえどんなに単調で平凡なものであろうとも、自分の世界として受け入れようとする。ジェイに会いに行った「僕」は、夕暮れの海岸で二時間泣いたあと、波の音を背中で聞きながらまたどこかに向かって歩き始める。
独特の比喩表現がますます冴えを見せている、野間文芸新人賞受賞したこの作品は、「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」とで、長編三部作をなしているが、ここでは俄然物語が動き始める。
ある日、「僕」はPR誌のグラビア・ページに使った写真のことで、右翼の大物の秘書に脅迫をされる羽目に陥る。1カ月以内にその写真に写っている「星形の斑紋」のついた羊を探し出せというのだ。
この写真は行方不明の「鼠」から送られてきたものである。「僕」は耳のモデルの彼女に促され、2人は北海道へと羊の捜索旅行に出かける。1頭の羊をめぐる冒険のはじまりだ。宿泊先の「いるかホテル」で、二人は「羊博士」に出会う。
もと農林省のエリート官僚だったこの老人は、体内に羊が入り込み、「交霊」を体験して「羊つき」となった。しかしその後、羊は右翼の大物の体内に入り込み、博士は「羊抜け」となったのである。この博士から写真の場所を教えてもらった二人は、ホテルを去り、十二滝町へと向かう。探していた牧場にたどりつくと、そこにある別荘は「鼠」の父親のものであったことがわかる。
「僕」はその別荘で「羊男」と出会い、そしてついに闇の中で「鼠」と再会する。「僕」はすでに死んでいる「鼠」と羊の話をする。彼は「僕」が別荘にやってくる一週間前に首をつって死んだのだ。死ぬ直前に彼がしたことは時計のねじを巻くことだった。
「鼠」はその羊に支配されてしまう前にそれを呑み込み、そのまま自殺を図ったのだ。こうして羊をめぐる冒険旅行は終わりを迎える。任務を果たした「僕」がホテルに戻ると、耳のモデルの彼女は消えていた。
「生ある世界」に戻った「僕」は、それがたとえどんなに単調で平凡なものであろうとも、自分の世界として受け入れようとする。ジェイに会いに行った「僕」は、夕暮れの海岸で二時間泣いたあと、波の音を背中で聞きながらまたどこかに向かって歩き始める。
独特の比喩表現がますます冴えを見せている、野間文芸新人賞受賞したこの作品は、「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」とで、長編三部作をなしているが、ここでは俄然物語が動き始める。
2011年10月23日日曜日
1973年のピンボール
「僕」には、かつて学生時代に直子という恋人がいた。
そして1973年の今現在、「僕」は友人と二人で翻訳事務所を開いている。アパートにはいつの間にか住み着いた双子の女の子がいる。この二人には名前はなく、「僕」はそれぞれを「208」「209」と呼んでいる。
彼女たちにコーヒーを入れてもらったり、一緒にゴルフ場を散歩したりして、「僕」は毎日を送っている。ある時、三人は「貯水池」まで出かけていって、不要になった電話の「配電盤のお葬式」をするが、この場面は時代の過渡期を表すという意味で非常に重要な役割を担っている。
一方、遠くにいる「鼠」は、年上の女との関わりがますますその存在感を膨らませていくのを感じとっていた。彼はそんな日常生活から脱出しようとする。そして、「街を出ることにするよ」とジェイに伝える。1970年の冬、「僕」はピンボールの虜になった。それは3フリッパーの「スペースシップ」というモデルだ。
彼女(「スペースシップ」)とはベストスコアまで出した仲だったが、1971年2月、彼女は突然姿を消してしまった。彼女との「短い蜜月」は終わったのだ。しかし、「僕」は彼女のことが忘れられなかった。あるゲームセンターでピンボール・マニアのスペイン語講師の名前を教えてもらい、そこから彼女の捜索が始まる。
そして秋も深まったころ、「僕」は再び彼女とめぐり合う。ベストスコアを汚したくない「僕」は、ゲームをやらずに彼女を後にする。最後に双子が「僕」のアパートを出て行って物語は終わる。不要になった配電盤のように、「僕」自信も行き場のない思いに取りつかれていた。「鼠」はもうひとりの「僕」を思わせるようだ。
つまり、「僕」と「鼠」の二人の間に配電盤が位置しているのである。
大江健三郎の『万延元年のフットボール』を思わせるタイトルだが、処女作の『風の歌を聴け』とこの作品は海外では正式には紹介されていない。村上は次の『羊をめぐる冒険』で海外デビューを果たすのである。そこにはストーリーから物語の世界への移行という、村上にとっての大きな課題があったことが窺える。
そして1973年の今現在、「僕」は友人と二人で翻訳事務所を開いている。アパートにはいつの間にか住み着いた双子の女の子がいる。この二人には名前はなく、「僕」はそれぞれを「208」「209」と呼んでいる。
彼女たちにコーヒーを入れてもらったり、一緒にゴルフ場を散歩したりして、「僕」は毎日を送っている。ある時、三人は「貯水池」まで出かけていって、不要になった電話の「配電盤のお葬式」をするが、この場面は時代の過渡期を表すという意味で非常に重要な役割を担っている。
一方、遠くにいる「鼠」は、年上の女との関わりがますますその存在感を膨らませていくのを感じとっていた。彼はそんな日常生活から脱出しようとする。そして、「街を出ることにするよ」とジェイに伝える。1970年の冬、「僕」はピンボールの虜になった。それは3フリッパーの「スペースシップ」というモデルだ。
彼女(「スペースシップ」)とはベストスコアまで出した仲だったが、1971年2月、彼女は突然姿を消してしまった。彼女との「短い蜜月」は終わったのだ。しかし、「僕」は彼女のことが忘れられなかった。あるゲームセンターでピンボール・マニアのスペイン語講師の名前を教えてもらい、そこから彼女の捜索が始まる。
そして秋も深まったころ、「僕」は再び彼女とめぐり合う。ベストスコアを汚したくない「僕」は、ゲームをやらずに彼女を後にする。最後に双子が「僕」のアパートを出て行って物語は終わる。不要になった配電盤のように、「僕」自信も行き場のない思いに取りつかれていた。「鼠」はもうひとりの「僕」を思わせるようだ。
つまり、「僕」と「鼠」の二人の間に配電盤が位置しているのである。
大江健三郎の『万延元年のフットボール』を思わせるタイトルだが、処女作の『風の歌を聴け』とこの作品は海外では正式には紹介されていない。村上は次の『羊をめぐる冒険』で海外デビューを果たすのである。そこにはストーリーから物語の世界への移行という、村上にとっての大きな課題があったことが窺える。
風の歌を聴け
最初の長編小説で、『群像』新人賞受賞。この物語は1970年の8月8日に始まり、8月26日に終わる、18日間のストーリーである。
「僕」が「鼠」に会ったのは、この物語が始まる3年前。二人が大学に入った年である。1970年8月、21歳の「僕」は、夏休みを利用して故郷の港町に帰ってきた。その間、たいていは「鼠」と一緒に、友人のジェイが経営する「ジェイズ・バー」でビールを飲んで過ごしていた。
ある時、このバーで酔って意識を失くした女と知り合う。双子の妹がいるという「彼女」はレコード店に勤めている。彼女は左手の小指がない。また、「僕」は、昔あるレコードを貸してくれた女の子のことを探しまわったり、それまでに関係を持った女の子のことを回想したりしながら夏を過ごす。夏が終わり、「僕」はまた東京に戻っていく。
誕生日の12月24日に、大学をやめて小説家を目指している「鼠」から小説が送られてくる。彼の小説の優れた点は、セックス・シーンがないことと、人が一人も死なないことだ。彼はまた金持ちの息子であり、それに我慢ができなくなることがある青年である。
「鼠」の小説に死や性描写がないことを優れた点だとしているのはある種の皮肉であると捉えるべきだろう。なぜなら、その後の村上の小説とはまったく正反対の世界だからだ。
村上にとって、それらは避けては通れないテーマであることは明白だ。また「鼠」が金持ちの青年であることも、村上のヒーロー像に反している。
この物語は今29歳の「僕」の回想となっている。古きよき時代を懐かしむようなレコードの歌詞や、ディスク・ジョッキーなどが盛り込まれているが、あらゆるものは通り過ぎ、誰もそれを捉えることはできないといった、「時の流れ」を意識した喪失感あふれる作品である。
カート・ボネガットの亜流であるとか、文体が翻訳調であるとか、いろいろと取沙汰されたが、読後感はそれまでに経験したことのない新鮮なものであった。それは、なんとも形容しがたいものでもあったが、今にして思えば、当時の時代感覚を見事に捉えていたように思われる。この作品は、1981年、大森一樹監督により映画化されているが、小説の全体の雰囲気を見事に描き出している。
「僕」が「鼠」に会ったのは、この物語が始まる3年前。二人が大学に入った年である。1970年8月、21歳の「僕」は、夏休みを利用して故郷の港町に帰ってきた。その間、たいていは「鼠」と一緒に、友人のジェイが経営する「ジェイズ・バー」でビールを飲んで過ごしていた。
ある時、このバーで酔って意識を失くした女と知り合う。双子の妹がいるという「彼女」はレコード店に勤めている。彼女は左手の小指がない。また、「僕」は、昔あるレコードを貸してくれた女の子のことを探しまわったり、それまでに関係を持った女の子のことを回想したりしながら夏を過ごす。夏が終わり、「僕」はまた東京に戻っていく。
誕生日の12月24日に、大学をやめて小説家を目指している「鼠」から小説が送られてくる。彼の小説の優れた点は、セックス・シーンがないことと、人が一人も死なないことだ。彼はまた金持ちの息子であり、それに我慢ができなくなることがある青年である。
「鼠」の小説に死や性描写がないことを優れた点だとしているのはある種の皮肉であると捉えるべきだろう。なぜなら、その後の村上の小説とはまったく正反対の世界だからだ。
村上にとって、それらは避けては通れないテーマであることは明白だ。また「鼠」が金持ちの青年であることも、村上のヒーロー像に反している。
この物語は今29歳の「僕」の回想となっている。古きよき時代を懐かしむようなレコードの歌詞や、ディスク・ジョッキーなどが盛り込まれているが、あらゆるものは通り過ぎ、誰もそれを捉えることはできないといった、「時の流れ」を意識した喪失感あふれる作品である。
カート・ボネガットの亜流であるとか、文体が翻訳調であるとか、いろいろと取沙汰されたが、読後感はそれまでに経験したことのない新鮮なものであった。それは、なんとも形容しがたいものでもあったが、今にして思えば、当時の時代感覚を見事に捉えていたように思われる。この作品は、1981年、大森一樹監督により映画化されているが、小説の全体の雰囲気を見事に描き出している。
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