最初の長編小説で、『群像』新人賞受賞。この物語は1970年の8月8日に始まり、8月26日に終わる、18日間のストーリーである。
「僕」が「鼠」に会ったのは、この物語が始まる3年前。二人が大学に入った年である。1970年8月、21歳の「僕」は、夏休みを利用して故郷の港町に帰ってきた。その間、たいていは「鼠」と一緒に、友人のジェイが経営する「ジェイズ・バー」でビールを飲んで過ごしていた。
ある時、このバーで酔って意識を失くした女と知り合う。双子の妹がいるという「彼女」はレコード店に勤めている。彼女は左手の小指がない。また、「僕」は、昔あるレコードを貸してくれた女の子のことを探しまわったり、それまでに関係を持った女の子のことを回想したりしながら夏を過ごす。夏が終わり、「僕」はまた東京に戻っていく。
誕生日の12月24日に、大学をやめて小説家を目指している「鼠」から小説が送られてくる。彼の小説の優れた点は、セックス・シーンがないことと、人が一人も死なないことだ。彼はまた金持ちの息子であり、それに我慢ができなくなることがある青年である。
「鼠」の小説に死や性描写がないことを優れた点だとしているのはある種の皮肉であると捉えるべきだろう。なぜなら、その後の村上の小説とはまったく正反対の世界だからだ。
村上にとって、それらは避けては通れないテーマであることは明白だ。また「鼠」が金持ちの青年であることも、村上のヒーロー像に反している。
この物語は今29歳の「僕」の回想となっている。古きよき時代を懐かしむようなレコードの歌詞や、ディスク・ジョッキーなどが盛り込まれているが、あらゆるものは通り過ぎ、誰もそれを捉えることはできないといった、「時の流れ」を意識した喪失感あふれる作品である。
カート・ボネガットの亜流であるとか、文体が翻訳調であるとか、いろいろと取沙汰されたが、読後感はそれまでに経験したことのない新鮮なものであった。それは、なんとも形容しがたいものでもあったが、今にして思えば、当時の時代感覚を見事に捉えていたように思われる。この作品は、1981年、大森一樹監督により映画化されているが、小説の全体の雰囲気を見事に描き出している。
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