2011年11月1日火曜日

スプートニクの恋人

小学校の教師をしている「ぼく」はすみれという女性に思いを寄せている。しかし彼女はミュウという女性に恋をする。
そして、すみれが突然旅先のギリシャの島で姿を消してしまう。ミュウの連絡を受けた「ぼく」はその島に向かい、必死の捜索を続けるが結局彼女は見つからない。帰国した「ぼく」は肉体関係のあった教え子の母親と別れる決心をする。

そんなある日、すみれから電話がかかってくるが、彼女が本当に戻ってきたかどうかは定かではない。『ねじまき鳥クロニクル』の後、『アンダーグラウンド』および『約束された場所で』のオウム関連のノンフィクションをはさんでの長編小説ということで、それなりの期待を抱いていた読者も多いことだろう。

それは、もしかしたら何かとても大きな変化がそこにはあるかも知れないといったようなことだ。結果は、あると言えばあると言えるし、ないと言えばないのかもしれない。もっと正確に言えば、以前の村上春樹スタイルで始まり、後半から、わずかではあるが、いわゆる変化の兆しのようなものが見え始めるといった感じだ。だが、未だ答えは見出せてはいない。

相変わらず続く喪失感、自己を見失い、人とどうしてもつながれない焦燥感が伝わってくる。この闘いは終わることはない。遠い彼方に光を求め、闘い続けることを約束する終わり方に、少なくとも安堵を覚える。それにしても、このタイトルにはやられたというか、まいったとしか言いようがない。

「スプートニク」というからには、それはロシアを舞台に何か政治的な物語が展開されるのかなどと想像していたら、ビートニクというべきところを単に間違えてしまったという一種の駄洒落にすぎないわけだ。しかし、それが、見事に物語全体と深くからまり、大きな意味を持ってくるのだから、やっぱりすごいとしか言いようがない。

最後のシーンは、あの『ノルウェイの森』を思い出させる。でも、決定的な違いがそこにはある。われわれは、「ひとりぼっちでぐるぐると地球のまわりをまわっている」人工衛星のような存在であり、そこにただ一人乗せられて、小さな窓から同じ地球の景色を何度も何度も見続けているライカ犬のようなものだ。これ以上の孤独はない。

さらに、そうした人工衛星同士も、言葉を交わすこともなくただすれ違うだけ。こうしたわれわれの不在のような存在を受け入れた「ぼく」は、ワタナベとは違う。そうした現実を受け入れた上で、さらに彼はすみれの帰還を待ち続けることができるのだ。決して焦らず、冷静にいつまでも。とはいえ、われわれはなぜこんなにも孤独なのだろう。

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