2011年11月5日土曜日

海辺のカフカ

この長編は「世界でいちばんタフな15歳の少年」になろうとして、1人で四国を目指して旅に出る中学生の男子、田村カフカの物語である。

彼は「なにかの運命にひきつけられるように」高松の図書館にやってくる。彼は4歳のときに、母親が姉を連れて家を出て行ったことを一種のトラウマのように心の傷として今も抱えている。これは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』などと同様に、2つの話が交互に語られながら進行していく構成になっている。そのもう1つの話とは、子供の頃に原因不明の記憶喪失を体験したナカタという初老の男性にまつわるものである。彼は長く続いた意識不明状態の後、「白紙の状態でこの世界にもどって」きた。彼には意識を失う前の記憶は一切残っていなかった。

この2人には何の接点もないように見えるが、どこか見えないところで繋がっているようだ。というのも、このナカタさんもカフカ少年と同じく、四国を目指して旅に出ることになるからだ。この2人は結局最後まで出会うことはない。最後に任務を終えたナカタさんは死に、カフカ少年は自分のまわりに立ちはだかっていた壁を乗り越え、これから進むべき方向を見出し、東京へと戻っていく。

この物語ではすべてが過去へと引き戻されていく。失われた時を検証するかのように、カフカ少年は過去へのこだわりを見せつける。そして現実と闘っている。それはまた夢と現実、眠りと覚醒という対立の形でも示される。結局、少年はこの旅で母親と姉に再び出会うことができたようだ。

高松の図書館で出会った佐伯さんという女性がどうやら少年の母親であるらしい。彼女はすでに記憶を捨てている。記憶を預かるのは図書館の仕事であり、その記憶を消す仕事を任されるのが、子供の頃に記憶をなくしたナカタさんという設定になっている。彼女の記憶のすべては「海辺のカフカ」という1枚の絵に凝縮されており、彼女はそれをカフカ少年に託して死んでいく。彼女は記憶を抱えてこの現実で生きていくことを少年に懇願する。その記憶がいかに辛いものであったとしてもだ。

最終的に少年は現実に戻り、呪縛から開放された彼は「もう1度ひとつになる」。現実の「新しい世界の1部」になる。この作品は、これまでの村上世界のモチーフの多くが見られるものの、ある意味まったく違った印象を与える小説だ。その原因はどこにあるのだろうか。この2年前に出された短編集、『神の子どもたちはみな踊る』の最後に収められた「蜂蜜パイ」という作品で約束した「今までとは違った小説」がこれにあたるのだろうか。おそらくそうだろう。

主人公が過去と現在、あるいは夢と現実の独鷹て苦しむ識定はこれまでにも見られたものだが、カフカ少年の場合は確実に壁を乗り越え、タフな少年に変身している。「蜂蜜パイ」での公約がここに生きているといえる。われわれが今生きている社会はあまりにも非現実的な現実であふれている。あるいは、現実的な非現実があふれているというべきかもしれない。

自分がひとつになって、この世界にうまく溶け込むことは至難の業であるようだ。多くの捨ててはいけない記憶をどんどん捨て去りながら生きてきた結果、実体を失ってしまっているのかもしれない。カフカ少年は母親の失敗を受け入れ、それを許し、自分は成長した。彼は記憶をしっかりと自分の身体で受け止めることを覚えたのだ。

彼のよき理解者である大島さんが次のようなことを言っている「紫式部の生きていた時代にあっては、生き霊というのは怪奇現象であると同時に、すぐそこにあるごく自然な心の状態だった。そのふたつの種類の闇をべつべつに分けて考えることは、当時の人々にはたぶん不可能だっただろうね。しかし僕らの今いる世界はそうではなくなってしまった。外の世界の闇はすっかり消えてしまったけれど、心の闇はほとんどそのまま残っている。僕らが自我や意識と名づけているものは、氷山と同じように、その大部分を闇の領域に沈めている。そのような乖離が、ある場合には僕らの中に深い矛盾と混乱を生みだすことになる」。

カフカ少年はこの乖離現象と闘ったのだ。そして勝利した。多くのまわりの人々の助けを得て。ひと言で言えば、この小説の中心テーマはこの大島さんのせりふに凝縮されているといえるだろう。カフカ少年は夢を通して父親を殺したことになっている。

そして実際に手を下したのはナカタさんである。彼はカフカ少年に代わって殺人を引き受けないわけにはいかなかった。彼の仕事は、今ある現在をあるべき姿に戻すことである。つまり、カフカ少年の中の佐伯さんに象徴される過去への強い思いを逆の方向に引き戻す役割を果たしている。ナカタさんも佐伯さんもともにカフカ少年の想像上の産物である。すべては少年の中での葛藤なのだ。

彼はひとりで夢の中で闘い、そして勝利したのだ。「カラスと呼ばれる少年」が次のように言っている、「君は想像力を恐れる。そしてそれ以上に夢を恐れる。夢の中で開始されるはずの責任を恐れる。でも眠らないわけにはいかないし、眠れば夢はやってくる。目覚めているときの想像力は何とか押しとどめられる。でも夢を押しとどめることはできない」。こうして少年は夢の世界に立ち向かい、現実を勝ち取ったのだ。

ナカタさんも佐伯さんも「影」を半分なくしているという設定になっているが、それはピーター・パンのように、大人になりきれていないことを示唆している。つまり、成長が途中で止まっている。ナカタさんはある意味で子供のままだし、佐伯さんも20歳で止まってしまっている。その意味でも、われわれは常に「影」を抱いて生きていかなければならない。それはつまり、われわれの「記憶」ではないだろうか。

それはたとえどんなものであれ、決して捨ててはいけないのだ。佐伯さんは言う、記憶というのは「場合によってはなによりも大事なものなの」と。だから、「海辺のカフカ」の絵を持っていてほしいと頼む。そもそもその絵は少年のものだったのだ。「あなたは僕のお母さんなんですか?」という問いに対して、彼女はこう答える「私は遠い昔、捨ててはならないものを捨てたの。私が何よりも愛していたものを。私はそれがいつかうしなわれてしまうことを恐れたの。(中略)奪いとられたり、なにかの拍子に消えてしまったりするくらいなら、捨ててしまったほうがいいと思った。(中略)でもそれは間違ったことだった」。

この作品では、多くの日本の古典文学が登場するが、それは日本の記憶として読者に提示しようとしているのだろう。この作品において、第二期村上春樹世界が完結したといえるだろう。

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