2011年10月31日月曜日

国境の南、太陽の西

円満な家庭を持ち、何の問題もなく順調な日々を送る37歳の「僕」は、12歳の頃に好きだった島本さんに再会する。そこでそれまでの自分の人生のすべてが間違っていたと考えるようになり、すべてを捨ててもう1度彼女とやり直したいと思う。しかし、彼女は1枚のレコードを残して「僕」のもとから姿を消してしまう。

そんな「僕」は「明日からもう一度新しい生活を始めたい」と妻に話し、再びもとの生活に戻ろうと決意する。過去を中途半端な状態にしたままで、現在に身を置いている主人公が、あるきっかけで、このままではいけないと気づき、もう一度過去のある時点にさかのぼってやり直そうとするが、結局は現在の自分を選ぶことになる。

しかし、それは決して積極的にそうしたわけではない。あくまでも現在の世の中のシステムに飲み込まれて生きている自分に対しては、不満を感じている。何の問題もなく、文句のつけようのない生活を送っているのだが、そこには居心地の悪さのようなものを感じずにはいられない。現実の「国境の南」には彼が抱いていた夢やあこがれは存在しなかった。

そこは結局は「太陽の西」だったのだ。彼は、ナット・キング・コールのレコードの「スクラッチ・ノイズ」が恋しくてたまらないのだ。足を引きずっていた島本さんにもう一度会いたくて仕方がない。でも、島本さんはもう足を引きずらない。大切にしてきたはずのレコードとともに、島本さんも消えてしまう。それは、過去(理想)との決別を意味する。

いつまでも、ギャツビーのように、「緑の灯火」を追いかけてはいられない。時は、無情にも先へ先へと進んでいく。もう後戻りはできない。流れにも逆らえない。なぜなら、現実には「中間」の存在というものがないのだから。どちらか一方しかないのだ。実際、島本さんがレコードとともに消えたのではなく、主人公が自らの意志で消したのであろう。不本意ながらではあるが。彼に残された選択肢はそれだけなのだ。

なぜなら、「国境の南」はもうどこにも存在しないからだ。もうその境界線を越えて現実を見てしまった以上、われわれはそれが仮に「太陽の西」だと分かっていても、それを受け入れていくしか道はない。それが現実だ。それはまるで「海に降る雨」を思わせるような世界かもしれない。荒涼とした孤独な世界。しかし、そんな世界ででも、もしかしたら「背中にそっと手を置」いてくれる入が現れるかもしれない。

それを信じて待つしかないのだ。吉本ばななや山田詠美から厳しい批判を受けた作品。確かに今日、男性作家が女性を描くというのは決して易しくない。しかし、それはそれとして、この作品はやはり村上ワールドの一環として捉えなければいけない。日常の世界と非日常の世界、つまり、こちらの世界とあちらの世界は彼の一貫したテーマのひとつである。夢と現実の狭間でわれわれはどこに身を置けばよいのか。選択肢はあるのか。現実はいやでもわれわれに付きまとう。

0 件のコメント:

コメントを投稿