2011年11月10日木曜日

1Q84

この長編の〈Book1〉と〈Book2〉では、青豆と天吾の物語が交互に語られる形で進行していく。〈Book3〉では、この2人にさらに私立探偵の牛河が加わり、3つの物語が同時に進行しながら展開する。

〈Book2〉まではスリルとサスペンスにあふれたスピーディーな展開だが、探偵が加わってからは、ゆっくりと進んでいく。全体を通して、物語の背景には無音の世界が広がる。そこからは、これまでの村上の作品とは違い、歌や音楽も消されている。何かが何かに向かって一歩ずつ静かに進んでいる。

タクシーで仕事に急ぐ青豆は首都高で渋滞に巻き込まれ、非常階段を使って一般道に降り、そこから電車に乗り換えようとする。物語はここから始まるが、このとき彼女が降り立った世界は、現実の「1984年」ではなく、もうひとつの別の世界である「1Q84年」であった。

いわゆるパラレル・ワールドの物語ということになるが、〈Book3〉の結末では、それが単に並行世界ではなく、さらに複雑な多重世界に入りこんでしまったかもしれないという暗示を残して終わる。青豆にはスポーツ・インストラクターの仕事以外の別の顔がある。それはまさに「必殺仕事人」さながらの殺人請負人としての顔である。

一方、天吾は予備校の数学講師をしながら小説家を目指している。彼は親しい編集者の企画で、ふかえりという17歳の少女の文学賞応募作品『空気さなぎ』を書き換える仕事を請け負うことになる。その結果この作品は賞を取り、ベストセラーとなる。

別々に進行する2人の物語だが、青豆と天吾は小学生の時に同級生であった。ある時、両親が証人会の信者であるために、いじめにあっていた青豆を天吾が助ける。2人は無言で手を握り合うのだが、このことがこの作品の核となり、最後まで1本の線として途切れずに続いていくことになる。

当時2人は10歳であった。天吾は日曜日になるとNHKの集金人である父の仕事で連れまわされ、そのことが嫌でたまらなかった。青豆も両親の布教活動に連れられて日曜日がつぶれてしまうという共通点があった。しかし、その後2人はこうした親と決別し、自分の道を切り開こうとする。そうして20年の歳月が流れ、運命は2人を再会に向けて1歩ずつ近づけていく。

天吾がゴーストライターを務めたふかえりの父親は宗教法人「さきがけ」のリーダーであり、この男を青豆がある老夫人の要請により殺害することとなる。こうして彼女は「さきがけ」から追われる身となる。また、ふかえりが描いた世界はこの閉鎖的な宗教法人の秘密であるリトル・ピープルのことを世間に暴く内容であり、天吾も同様に「さきがけ」の敵となる。

探偵の牛河は「さきがけ」に雇われて2人を追うこととなる。青豆は「さきがけ」のリーダーに、天吾を救うためには自分自身が死を覚悟しなければならないと告げられていたが、最終的に自殺を思い留まる理由は彼女のお腹には天吾の子どもがいることがわかるからである。2人は交わることなく、新たな命が宿るのだ。

受胎告知的な進展だが、彼女はこの命が天吾の子であると確信する。おそらくふかえりを通して、この命は芽生えたようだ。この命の声に従い、青豆は生きることを選ぶのだ。最後に2人は20年ぶりの再会を果たし、青豆が降りた首都高の非常階段を逆に昇ることで、もとの世界に戻ったようだ。

しかし、それがほんとうに「1984年」であるかどうかはまだ分からない。2人はさらにまた別の世界へと迷い込んだ可能性も残されている。

2011年11月6日日曜日

アフターダーク

作家生活25周年を記念する書き下ろし長編小説。
この作品の舞台は大都市そのものであり、しかも真夜中から夜明けまでの物語だ。まさに村上の得意とする都市小説だが、これまでとは何かが違う。まず、「僕」はもはや登場しないこと、そして、物語の舞台が渋谷に限定されており、非常に閉塞的な感じが強い。

また、これまでの村上作品世界の顕著な特徴である2つの世界の区分がはっきりと描かれていない。さらに、断片的な事象が最後に1本の線としてつながっていくこともない。いや、正確に言うと、そのつながり方が不明瞭なのだ。その点において、読後感が今ひとつすっきりしない。村上ワールドのこれまでのモチーフはすべて網羅されているといってよい。

孤独、喪失、などなど。それなのに、それらが断片的に提示されているだけで、読者としては戸惑いを隠せないまま物語は進んでいく。しかし、よく読むと、あるいは、読者が断片を上手くつむぎ合わせることができれば、1つのことが形を成してくる。この作品の大きなテーマの一つは「眠り」についてである。

ひたすら眠り続けるマリの姉。本来人々が眠っているべき時間である夜に活動している人々が描かれている中、この悌眠り続ける女性は対照的だ。眠るべき時に眠らない、あるいは眠れない人たち。逆に起きているべきときにも眠り続けている人。ここにも明確な境界線の消失が見て取れる。マリと同様、われわれは深い眠りへの渇望を抱きつつも、なかなかそれを実現できないでいる。どこかで常に覚醒している自分があるのだ。まさに大都市の夜が眠りにつかないのと同様に。

そしてもう1つのテーマは、夜という箱に閉じ込められている人々である。地震で瓦礫の下に閉じ込められたように、狭い暗闇に閉じ込められる感覚が、現代の大都会に生きる若者たちの感覚とぴったり一致しているような気がする。夜という暗闇の中に閉じ込められている人々の生態を描いているとも言えそうだ。

「深海の生物たち」というタイトルの自然記録番組のことがさりげなく描かれているが、これは象徴的なタイトルだ。まさに大都市の夜に覚醒している人々そのものである。そこには言葉はなく、静かな光景があるだけだ。事実、エリとマリの姉妹には子供のころにエレベーターに閉じ込められた経験がある。ただ、恐怖の中、そこには1つの「一体感」があった。それは2度と戻らなかったとマリは言うが、この深い夜の海の中で、姉を知っているという高橋に始まり、何人かの人々との交流を体験する。

中国人の娼婦との触れ合い、そして、どんな記憶もそれは生きるための燃料だというラブホテルの従業員の言葉。こうした中で彼女は少しずつ眠りの世界へと誘われていく。「短いけれど深い眠り。それは彼女が長いあいだ求めていたものだ」。こうしてマリはもう1度姉との一体感を取り戻す可能性を得る。

姉の呼ぶ声が聞こえる。夜明けとともに、エリに変化が起こる、「エリの小さな唇が、何かに反応したように微かに動く。……今の震えは、来るべき何かのささやかな胎動であるのかもしれない。……意識の微かな隙間を抜けて、何かがこちら側にしるしを送ろうとしている。……私たちはその予兆が、ほかの企みに妨げられることなく、朝の新しい光の中で時間をかけて膨らんでいくのを、注意深くひそやかに見守ろうとする。夜はようやく明けたばかりだ」。

また夜が来る前に、われわれは何かを取り戻さなければならない。それはいつまた失われてしまうかもしれない。われわれは「どこまで逃げても逃げられない」のかもしれない。昼の光はほんの一時的なものにしか過ぎないのかもしれない。でも、それもまた生きていくための燃料となるはずだ、「次の闇が訪れるまでに、まだ時間はある」。

この『アフターダーク』から村上世界は第三期に入ったと考えてよいだろう。

2011年11月5日土曜日

海辺のカフカ

この長編は「世界でいちばんタフな15歳の少年」になろうとして、1人で四国を目指して旅に出る中学生の男子、田村カフカの物語である。

彼は「なにかの運命にひきつけられるように」高松の図書館にやってくる。彼は4歳のときに、母親が姉を連れて家を出て行ったことを一種のトラウマのように心の傷として今も抱えている。これは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』などと同様に、2つの話が交互に語られながら進行していく構成になっている。そのもう1つの話とは、子供の頃に原因不明の記憶喪失を体験したナカタという初老の男性にまつわるものである。彼は長く続いた意識不明状態の後、「白紙の状態でこの世界にもどって」きた。彼には意識を失う前の記憶は一切残っていなかった。

この2人には何の接点もないように見えるが、どこか見えないところで繋がっているようだ。というのも、このナカタさんもカフカ少年と同じく、四国を目指して旅に出ることになるからだ。この2人は結局最後まで出会うことはない。最後に任務を終えたナカタさんは死に、カフカ少年は自分のまわりに立ちはだかっていた壁を乗り越え、これから進むべき方向を見出し、東京へと戻っていく。

この物語ではすべてが過去へと引き戻されていく。失われた時を検証するかのように、カフカ少年は過去へのこだわりを見せつける。そして現実と闘っている。それはまた夢と現実、眠りと覚醒という対立の形でも示される。結局、少年はこの旅で母親と姉に再び出会うことができたようだ。

高松の図書館で出会った佐伯さんという女性がどうやら少年の母親であるらしい。彼女はすでに記憶を捨てている。記憶を預かるのは図書館の仕事であり、その記憶を消す仕事を任されるのが、子供の頃に記憶をなくしたナカタさんという設定になっている。彼女の記憶のすべては「海辺のカフカ」という1枚の絵に凝縮されており、彼女はそれをカフカ少年に託して死んでいく。彼女は記憶を抱えてこの現実で生きていくことを少年に懇願する。その記憶がいかに辛いものであったとしてもだ。

最終的に少年は現実に戻り、呪縛から開放された彼は「もう1度ひとつになる」。現実の「新しい世界の1部」になる。この作品は、これまでの村上世界のモチーフの多くが見られるものの、ある意味まったく違った印象を与える小説だ。その原因はどこにあるのだろうか。この2年前に出された短編集、『神の子どもたちはみな踊る』の最後に収められた「蜂蜜パイ」という作品で約束した「今までとは違った小説」がこれにあたるのだろうか。おそらくそうだろう。

主人公が過去と現在、あるいは夢と現実の独鷹て苦しむ識定はこれまでにも見られたものだが、カフカ少年の場合は確実に壁を乗り越え、タフな少年に変身している。「蜂蜜パイ」での公約がここに生きているといえる。われわれが今生きている社会はあまりにも非現実的な現実であふれている。あるいは、現実的な非現実があふれているというべきかもしれない。

自分がひとつになって、この世界にうまく溶け込むことは至難の業であるようだ。多くの捨ててはいけない記憶をどんどん捨て去りながら生きてきた結果、実体を失ってしまっているのかもしれない。カフカ少年は母親の失敗を受け入れ、それを許し、自分は成長した。彼は記憶をしっかりと自分の身体で受け止めることを覚えたのだ。

彼のよき理解者である大島さんが次のようなことを言っている「紫式部の生きていた時代にあっては、生き霊というのは怪奇現象であると同時に、すぐそこにあるごく自然な心の状態だった。そのふたつの種類の闇をべつべつに分けて考えることは、当時の人々にはたぶん不可能だっただろうね。しかし僕らの今いる世界はそうではなくなってしまった。外の世界の闇はすっかり消えてしまったけれど、心の闇はほとんどそのまま残っている。僕らが自我や意識と名づけているものは、氷山と同じように、その大部分を闇の領域に沈めている。そのような乖離が、ある場合には僕らの中に深い矛盾と混乱を生みだすことになる」。

カフカ少年はこの乖離現象と闘ったのだ。そして勝利した。多くのまわりの人々の助けを得て。ひと言で言えば、この小説の中心テーマはこの大島さんのせりふに凝縮されているといえるだろう。カフカ少年は夢を通して父親を殺したことになっている。

そして実際に手を下したのはナカタさんである。彼はカフカ少年に代わって殺人を引き受けないわけにはいかなかった。彼の仕事は、今ある現在をあるべき姿に戻すことである。つまり、カフカ少年の中の佐伯さんに象徴される過去への強い思いを逆の方向に引き戻す役割を果たしている。ナカタさんも佐伯さんもともにカフカ少年の想像上の産物である。すべては少年の中での葛藤なのだ。

彼はひとりで夢の中で闘い、そして勝利したのだ。「カラスと呼ばれる少年」が次のように言っている、「君は想像力を恐れる。そしてそれ以上に夢を恐れる。夢の中で開始されるはずの責任を恐れる。でも眠らないわけにはいかないし、眠れば夢はやってくる。目覚めているときの想像力は何とか押しとどめられる。でも夢を押しとどめることはできない」。こうして少年は夢の世界に立ち向かい、現実を勝ち取ったのだ。

ナカタさんも佐伯さんも「影」を半分なくしているという設定になっているが、それはピーター・パンのように、大人になりきれていないことを示唆している。つまり、成長が途中で止まっている。ナカタさんはある意味で子供のままだし、佐伯さんも20歳で止まってしまっている。その意味でも、われわれは常に「影」を抱いて生きていかなければならない。それはつまり、われわれの「記憶」ではないだろうか。

それはたとえどんなものであれ、決して捨ててはいけないのだ。佐伯さんは言う、記憶というのは「場合によってはなによりも大事なものなの」と。だから、「海辺のカフカ」の絵を持っていてほしいと頼む。そもそもその絵は少年のものだったのだ。「あなたは僕のお母さんなんですか?」という問いに対して、彼女はこう答える「私は遠い昔、捨ててはならないものを捨てたの。私が何よりも愛していたものを。私はそれがいつかうしなわれてしまうことを恐れたの。(中略)奪いとられたり、なにかの拍子に消えてしまったりするくらいなら、捨ててしまったほうがいいと思った。(中略)でもそれは間違ったことだった」。

この作品では、多くの日本の古典文学が登場するが、それは日本の記憶として読者に提示しようとしているのだろう。この作品において、第二期村上春樹世界が完結したといえるだろう。

2011年11月1日火曜日

スプートニクの恋人

小学校の教師をしている「ぼく」はすみれという女性に思いを寄せている。しかし彼女はミュウという女性に恋をする。
そして、すみれが突然旅先のギリシャの島で姿を消してしまう。ミュウの連絡を受けた「ぼく」はその島に向かい、必死の捜索を続けるが結局彼女は見つからない。帰国した「ぼく」は肉体関係のあった教え子の母親と別れる決心をする。

そんなある日、すみれから電話がかかってくるが、彼女が本当に戻ってきたかどうかは定かではない。『ねじまき鳥クロニクル』の後、『アンダーグラウンド』および『約束された場所で』のオウム関連のノンフィクションをはさんでの長編小説ということで、それなりの期待を抱いていた読者も多いことだろう。

それは、もしかしたら何かとても大きな変化がそこにはあるかも知れないといったようなことだ。結果は、あると言えばあると言えるし、ないと言えばないのかもしれない。もっと正確に言えば、以前の村上春樹スタイルで始まり、後半から、わずかではあるが、いわゆる変化の兆しのようなものが見え始めるといった感じだ。だが、未だ答えは見出せてはいない。

相変わらず続く喪失感、自己を見失い、人とどうしてもつながれない焦燥感が伝わってくる。この闘いは終わることはない。遠い彼方に光を求め、闘い続けることを約束する終わり方に、少なくとも安堵を覚える。それにしても、このタイトルにはやられたというか、まいったとしか言いようがない。

「スプートニク」というからには、それはロシアを舞台に何か政治的な物語が展開されるのかなどと想像していたら、ビートニクというべきところを単に間違えてしまったという一種の駄洒落にすぎないわけだ。しかし、それが、見事に物語全体と深くからまり、大きな意味を持ってくるのだから、やっぱりすごいとしか言いようがない。

最後のシーンは、あの『ノルウェイの森』を思い出させる。でも、決定的な違いがそこにはある。われわれは、「ひとりぼっちでぐるぐると地球のまわりをまわっている」人工衛星のような存在であり、そこにただ一人乗せられて、小さな窓から同じ地球の景色を何度も何度も見続けているライカ犬のようなものだ。これ以上の孤独はない。

さらに、そうした人工衛星同士も、言葉を交わすこともなくただすれ違うだけ。こうしたわれわれの不在のような存在を受け入れた「ぼく」は、ワタナベとは違う。そうした現実を受け入れた上で、さらに彼はすみれの帰還を待ち続けることができるのだ。決して焦らず、冷静にいつまでも。とはいえ、われわれはなぜこんなにも孤独なのだろう。

ねじまき鳥クロニクル

この超大作は、『パン屋再襲撃』に収められている「ねじまき鳥と火曜日の女」が原型となっている。第1部、第2部が1994年、第3部は1995年に上梓された。

失業した「僕」、岡田亨が家事を担当するようになると、まず猫がいなくなり、それから奇妙なことが次々と起こり始める。知らない女からの電話に始まり、予知能力者の加納マルタや、ノモンハン事件の生存者、本田老人が出現する。

こうして物語は日本の戦争、歴史へと発展していく。妻が失踪し、洞れた井戸に潜り込む「僕」は、そこでそれまで見えなかったものに遭遇する。処女作から一貫して登場してきた「井戸」がここでは前面に出てくる。主人公自らが進んでその井戸に入っていく設定となっている。

このことがこの作品の中で、最も重要な位置を占めるといっていいだろう。そして、そこに自己の内部の探求だけでなく、日本の近代化の中で歪められてきた歴史の真相といったものが絡んでくる。この作品は、90年代の村上春樹の仕事の中核をなすものとして大いに注目すべきであると同時に、彼のそれまでの作品世界の総決算的なものである。

村上はこの作品に4年以上の歳月を費やしたわけだが、奇しくも書き終えるとほぼ時を同じくして、地下鉄サリン事件が起きている。この事件を村上はこう分析している「私たちがわざわざ意識して排除しなくてはならないものが、ひょっとしてそこに含まれていたのではないか」と。つまり、そこに「我々が直視することを避け、意識的に、あるいは無意識的に現実というフェイズから排除し続けている、自分自身の内なる部分(アンダーグラウンド)」を見いだしているのである(「目じるしのない悪夢」)。

そして、それはまさに、井戸に入っていった主人公が追い求めたものなのだ。われわれが意識的に無意識の闇の中に葬り去ろうとしてきたことをもう1度呼び起こし、それを直視しようという姿勢がそこにはある。このように考えると、ノンフィクションではあるが、『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』の2つはともに『ねじまき鳥クロニクル』の続編的性格を帯びてくる。

すべてが実に巧妙につながってくるのだ。まるであらかじめ計画されていたかのように。しかし、登場人物たちは今もなかなかうまくつながれないでいるのが現状だ。地下深く掘り進んでいくことで、いずれは地下の水脈のごとくつながっていけるのだろうか。その答えは、『スプートニクの恋人』へと持ち越される。

2011年10月31日月曜日

国境の南、太陽の西

円満な家庭を持ち、何の問題もなく順調な日々を送る37歳の「僕」は、12歳の頃に好きだった島本さんに再会する。そこでそれまでの自分の人生のすべてが間違っていたと考えるようになり、すべてを捨ててもう1度彼女とやり直したいと思う。しかし、彼女は1枚のレコードを残して「僕」のもとから姿を消してしまう。

そんな「僕」は「明日からもう一度新しい生活を始めたい」と妻に話し、再びもとの生活に戻ろうと決意する。過去を中途半端な状態にしたままで、現在に身を置いている主人公が、あるきっかけで、このままではいけないと気づき、もう一度過去のある時点にさかのぼってやり直そうとするが、結局は現在の自分を選ぶことになる。

しかし、それは決して積極的にそうしたわけではない。あくまでも現在の世の中のシステムに飲み込まれて生きている自分に対しては、不満を感じている。何の問題もなく、文句のつけようのない生活を送っているのだが、そこには居心地の悪さのようなものを感じずにはいられない。現実の「国境の南」には彼が抱いていた夢やあこがれは存在しなかった。

そこは結局は「太陽の西」だったのだ。彼は、ナット・キング・コールのレコードの「スクラッチ・ノイズ」が恋しくてたまらないのだ。足を引きずっていた島本さんにもう一度会いたくて仕方がない。でも、島本さんはもう足を引きずらない。大切にしてきたはずのレコードとともに、島本さんも消えてしまう。それは、過去(理想)との決別を意味する。

いつまでも、ギャツビーのように、「緑の灯火」を追いかけてはいられない。時は、無情にも先へ先へと進んでいく。もう後戻りはできない。流れにも逆らえない。なぜなら、現実には「中間」の存在というものがないのだから。どちらか一方しかないのだ。実際、島本さんがレコードとともに消えたのではなく、主人公が自らの意志で消したのであろう。不本意ながらではあるが。彼に残された選択肢はそれだけなのだ。

なぜなら、「国境の南」はもうどこにも存在しないからだ。もうその境界線を越えて現実を見てしまった以上、われわれはそれが仮に「太陽の西」だと分かっていても、それを受け入れていくしか道はない。それが現実だ。それはまるで「海に降る雨」を思わせるような世界かもしれない。荒涼とした孤独な世界。しかし、そんな世界ででも、もしかしたら「背中にそっと手を置」いてくれる入が現れるかもしれない。

それを信じて待つしかないのだ。吉本ばななや山田詠美から厳しい批判を受けた作品。確かに今日、男性作家が女性を描くというのは決して易しくない。しかし、それはそれとして、この作品はやはり村上ワールドの一環として捉えなければいけない。日常の世界と非日常の世界、つまり、こちらの世界とあちらの世界は彼の一貫したテーマのひとつである。夢と現実の狭間でわれわれはどこに身を置けばよいのか。選択肢はあるのか。現実はいやでもわれわれに付きまとう。

2011年10月29日土曜日

ダンス・ダンス・ダンス

タイトルはビーチ・ボーイズの歌から取られている。『羊をめぐる冒険』の続編といえる長編である。

主人公の「僕」は34歳で離婚歴がある。PR雑誌のようなものに原稿を書いて生計を立てている。「僕」は自己の探求のために、札幌に旅をする。しかしそこにはもうあの「いるかホテル」はなかった。名前は「ドルフィン・ホテル」となり、それは近代的な高層ホテルに変身していたのだ。

「僕」はそのホテルに滞在しているあいだに、フロントの女性と知り合い、人生で失いかけていた精神的高揚が取り戻せるかもしれないという期待が膨らんでくる。彼女からホテルの暗闇の中での体験を聞かされた「僕」は何かを感じ取り、その場所に出かけていく。

そこで彼を待っていたのは、あの「羊男」であった。久しぶりに彼との再会を果たした「僕」は、「羊男」にいろんな話をする。「僕」はもう人を真剣に愛せなくなってしまい、もうどこにも行くことができないし、何を求めればいいのかもわからない、といったようなことを。

それに対して「羊男」は次のように説明する。「僕」は「いるかホテル」に含まれていて、すべてはここに始まり、すべてはここに終わる。「僕」はここにつながれている。「羊男」の役目は、「僕」が求め、手に入れたものを配電盤のようにつなげることだ。この場所は結び目なのだ。うまくいくかどうかはわからないが、とにかく「羊男」は「僕」のためにつなげる努力をしてくれる。

そして「僕」にできることは踊ること。何も考えずにただできるだけうまく踊ること。まさに、「ダンス・ダンス・ダンス」だ。こうして「僕」は、失われたものを再び取り戻そうと、東京からホノルルまで再生のための旅を続ける。
この間、「僕」にはストーリーの鍵となる様々な女性との出会いがある。13歳のユキという少女。そして彼女の母親のアメ。コールガールのメイ。かつて札幌で「僕」の前から姿を消したキキという女の子。

特にユキは、札幌で偶然に知り合い、東京まで連れて帰ることになるのだが、霊的な能力を持つこの少女は、物語の展開上、重要な役割を果たしている。ホノルルでキキを追って迷い込んだ場所で、「僕」は6つの白骨に出くわす。その後、「僕」の周囲で次々と死人が出る。「僕」が探し続けていたキキを殺したのは、「僕」の中学時代の友人で映画俳優の五反田君だとユキに言われ、「僕」は彼に真相を問いただす。その後、彼は車ごと海に飛び込んでしまう。

様々な喪失と絶望を乗り越えて、最後に「僕」は再び札幌へと向かう。ホテルで知り合ったユミヨシさんに会うためだ。彼女との交流の中で、「僕」は再び心の平和を回復していく。「ユミヨシさん、朝だ」という最後のせりふは、とてもさわやかで印象的な言葉だ。

過去の3部作が70年台を舞台にしていたのに対し、この作品ではそれが80年代に移行している。『ノルウェイの森』など、それまでの作品とは違い、主人公は最後に長いトンネルを抜けようやく1つの光を見たようだ。ここで、第1期村上春樹の世界は完結し、『TVピープル』を挟んで、第2期に突入する。

2011年10月28日金曜日

ノルウェイの森

37歳になった主人公のワタナベトオルが、ボーイング747機でハンブルク空港に到着するところからこの物語は始まる。
しかし、この飛行機はどこからやってきたのかわからない。読者は、それがどこの空港から飛んできたのかを知らされないのだ。

またなぜ、ハンブルクに来たのかさえ知らされることはない。そしてこのジャンボ・ジェットが到着すると同時に、われわれは主人公の回想の世界へと誘い込まれていく。

時代は1969年までさかのぼり、これがワタナベトオルとそのガールフレンド、直子の物語であることを知らされる。こうしてストーリーはフラッシュバック形式で展開していく。ワタナベが大学に入ってまもなく、高校時代からの知り合いである直子に電車の中で偶然再会する。彼女はワタナベの友人であったキズキのガールフレンドだったが、彼は高校生のときに自殺していた。

ワタナベと直子は東京でデートを重ねるようになり、彼女の20歳の誕生日に2人は結ばれる。しかしその直後に直子は姿を消してしまう。しばらくたってワタナベは直子から手紙を受けとり、彼女が精神的に病んでおり、今は京都の山の中にある療養所に入っていることを知らされる。

ワタナベは直子に関する事実を知ったころ、緑という女の子と大学のキャンパスで知り合う。彼女は若くて瑞々しく、活力にあふれる女性で、直子とはまさに正反対であった。

この後、ワタナベは二人の女性の間で揺れ続けることになる。物語の後半で、ワタナベは最終的に直子をその精神的な病から救いだすことができず、彼女は深い森の中で自らの命を絶ってしまう。苦しんだ挙句にその悲しみから何とか立ち直ったワタナベは、緑に連絡を取ろうとするが、電話ボックスの中で自分の居場所を告げることもできないまま、ただ彼女の名前を呼び続けているのだった。

こうして物語は終わる。

この作品の原型となっているのは、『螢・納屋を焼く・その他の短編』に収められている「螢」という短編である。これが第三章に組み込まれている。(ただし、「彼女」が直子に替わっている)。

このいきさつについて、村上は次のように語っている「僕は昔『螢』という話が書きたくて、さっと書いちゃったんです。で、短編としての出来もそう悪くなかったと思うんです。ただね、語り残した、もっと上手く書けたはずという思いは僕の心の中にずっと残っていたんです。それにケリをつけたいということはずっと思っていたんです。もっと膨らませて、もっと力のあるものにしたい、と。でも(中略)結構かかっちゃったですね、(中略)ケリをつけられるだけの力を蓄えるまでに」(「村上春樹ロング・インタヴユー」、『Par Avion』1988年4月号)。

こうして第一章に物語を過去へと引き戻すための回想のシーンが描かれ、第二章から約20年前に住んでいた学生寮の話が始まり、物語は展開していく。

再び村上の言葉を引用すると「僕は『螢』を何とかふくらませよう、伸ばそうというところから始まっているから、登場人物も後からもってきたわけです。例えば緑なんていうのはまったく出てこなかったし。だから、『螢』が終わった時点からどう話を伸ばそうか、これは相当考えたんですよね。で、緑という女の子のことを思いついたところで話はどんどん進んでいっちゃつた。だから直子という存在の対極にあるというか、対立する存在としての緑を出してきた時点で小説はもうできたようなものだったわけです。あとは永沢くんというちょっと奇妙な人物を出してきた。この3人の設定でうまくいってるんですね」。

こうして物語は、「僕」と直子、そして「僕」と緑という2つの平行した関係を中心に進んでいく。病気療養をしている直子と健全なイメージの緑は対照的な存在である。この2人はそれぞれ「静」と「動」、あるいは「生」と「死」というふうに、村上流の二つの世界を形成している。

そのあいだに、キズキ、レイコ、永沢、そしてハツミという人物が絡まってくる。この作品においてはじめて主人公をはじめ登場人物に名前が与えられることになるが、それは意図的にリアリズム小説を書こうとする以上は仕方のないことであったようだ。

名前がないと3人の会話が書けないという制約が生じるからだ。それは結果的に「物語を進化させていく段階」であったようだが、この作品は村上自身がほんとうに書きたい種類の小説ではないという。

ただリアリズムの文体でも長編が書けるという「確証」がほしかっただけで、今後2度と書くことはないようだ。その最大の理由は、他の小説とは違い、この作品は「あそこで終わっている」もので、作家としても作品としてもそれ以上広がっていく可能性がないから。

読者の中にはあの物語のその後に興味を持っている人もいると思われるが、村上のなかでは終わった作品だということだ。

短篇はともかく、今後われわれが村上によるリアリズムの長編を手にすることはなさそうだ。(『考える人』)大きな話題を呼び、社会現象となったこの作品は、空前のベストセラーとなり、長きにわたって読み継がれてきた。この小説はトラン・アン・ユン監督により映画化された(2010年12月公開)。

2011年10月25日火曜日

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

谷崎潤一郎賞受賞作品。2つの物語が同時に進行していく小説。

1つは「世界の終り」で、もう1つは「ハードボイルド・ワンダーランド」。これら2つの世界が交互に語られる形式となっている。
前者の主人公は「僕」で、後者は「私」である。最初はまったく関連性のない2つの違った物語のようであるが、最後にはこれらが見事につながっていく。

「世界の終り」の舞台は、高い壁に囲まれ、外界との接触が絶たれた街であり、「僕」はそこの図書館で一角獣たちの頭骨から古い夢を読んで暮らしている。
「ハードボイルド・ワンダーランド」における「私」は、老科学者によってある思考回路を意識の中に組み込まれており、その回路を巡って次から次へといろいろな事件が起こる。

「世界の終り」が「静」の世界なら、「ハードボイルド・ワンダーランド」は「動」の世界だ。
「私」の冒険は続く。そんな中で「私」は回路の秘密を知ることになるが、それは、「私」にはあとわずかしか時間が残されていないということであった。知らないうちに「私」の世界が終わろうとしているのだ。

また一方、「世界の終り」では、「僕」の脱出計画が進行している。弱った「影」を連れた「僕」はようやく出口に到着する。その向こうには外の世界が広がっている。しかし、自分自身が作り出したこの街に対する責任を取るために、「僕」はそこに残る決心をする。そうして「影」は一人で古い世界へと戻っていく。

この長編は、「街と、その不確かな壁」(『文學界』1980年)が原型となっている作品である。正確に言えば、それは「世界の終り」のほうの原型になっているわけだが、村上自身の言葉によると、本にしないで放りっぱなしにしていたこの作品を何とか書き直したかったということだ。
それがこの長いタイトルの作品に生まれ変わったわけだが、手法としては、2つの物語の「パラレル・ワールド」ということになる。

このように並行世界を描く方法は村上の作品世界の基本をなしているものであり、それは、「存在」と「不在」であり、また「静」と「動」であったりするものである。またさらに「世界の終わり」では、本来一緒でなければならないはずの自分とその影が別々になってしまっている。つまり、自分ともう一つの自分がばらばらになっているのだ。

こうした村上的世界は、この作品においてもっとも明確に表現されていると言ってよい。その技巧的な完成度は極めて高いものだ。その意味においても、すべての作品はこの長編につながると言える。

羊をめぐる冒険

友人と共同で広告会社を経営している「僕」。そんな「僕」の前から、「あなたと一緒にいてももうどこにも行けないのよ」と言って、妻は出て行ってしまう。その後、「僕」は耳のモデルをしている女の子と知り合い、仲よくなる。

ある日、「僕」はPR誌のグラビア・ページに使った写真のことで、右翼の大物の秘書に脅迫をされる羽目に陥る。1カ月以内にその写真に写っている「星形の斑紋」のついた羊を探し出せというのだ。

この写真は行方不明の「鼠」から送られてきたものである。「僕」は耳のモデルの彼女に促され、2人は北海道へと羊の捜索旅行に出かける。1頭の羊をめぐる冒険のはじまりだ。宿泊先の「いるかホテル」で、二人は「羊博士」に出会う。

もと農林省のエリート官僚だったこの老人は、体内に羊が入り込み、「交霊」を体験して「羊つき」となった。しかしその後、羊は右翼の大物の体内に入り込み、博士は「羊抜け」となったのである。この博士から写真の場所を教えてもらった二人は、ホテルを去り、十二滝町へと向かう。探していた牧場にたどりつくと、そこにある別荘は「鼠」の父親のものであったことがわかる。

「僕」はその別荘で「羊男」と出会い、そしてついに闇の中で「鼠」と再会する。「僕」はすでに死んでいる「鼠」と羊の話をする。彼は「僕」が別荘にやってくる一週間前に首をつって死んだのだ。死ぬ直前に彼がしたことは時計のねじを巻くことだった。

「鼠」はその羊に支配されてしまう前にそれを呑み込み、そのまま自殺を図ったのだ。こうして羊をめぐる冒険旅行は終わりを迎える。任務を果たした「僕」がホテルに戻ると、耳のモデルの彼女は消えていた。

「生ある世界」に戻った「僕」は、それがたとえどんなに単調で平凡なものであろうとも、自分の世界として受け入れようとする。ジェイに会いに行った「僕」は、夕暮れの海岸で二時間泣いたあと、波の音を背中で聞きながらまたどこかに向かって歩き始める。

独特の比喩表現がますます冴えを見せている、野間文芸新人賞受賞したこの作品は、「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」とで、長編三部作をなしているが、ここでは俄然物語が動き始める。

2011年10月23日日曜日

1973年のピンボール

「僕」には、かつて学生時代に直子という恋人がいた。
そして1973年の今現在、「僕」は友人と二人で翻訳事務所を開いている。アパートにはいつの間にか住み着いた双子の女の子がいる。この二人には名前はなく、「僕」はそれぞれを「208」「209」と呼んでいる。

彼女たちにコーヒーを入れてもらったり、一緒にゴルフ場を散歩したりして、「僕」は毎日を送っている。ある時、三人は「貯水池」まで出かけていって、不要になった電話の「配電盤のお葬式」をするが、この場面は時代の過渡期を表すという意味で非常に重要な役割を担っている。

一方、遠くにいる「鼠」は、年上の女との関わりがますますその存在感を膨らませていくのを感じとっていた。彼はそんな日常生活から脱出しようとする。そして、「街を出ることにするよ」とジェイに伝える。1970年の冬、「僕」はピンボールの虜になった。それは3フリッパーの「スペースシップ」というモデルだ。

彼女(「スペースシップ」)とはベストスコアまで出した仲だったが、1971年2月、彼女は突然姿を消してしまった。彼女との「短い蜜月」は終わったのだ。しかし、「僕」は彼女のことが忘れられなかった。あるゲームセンターでピンボール・マニアのスペイン語講師の名前を教えてもらい、そこから彼女の捜索が始まる。

そして秋も深まったころ、「僕」は再び彼女とめぐり合う。ベストスコアを汚したくない「僕」は、ゲームをやらずに彼女を後にする。最後に双子が「僕」のアパートを出て行って物語は終わる。不要になった配電盤のように、「僕」自信も行き場のない思いに取りつかれていた。「鼠」はもうひとりの「僕」を思わせるようだ。

つまり、「僕」と「鼠」の二人の間に配電盤が位置しているのである。

大江健三郎の『万延元年のフットボール』を思わせるタイトルだが、処女作の『風の歌を聴け』とこの作品は海外では正式には紹介されていない。村上は次の『羊をめぐる冒険』で海外デビューを果たすのである。そこにはストーリーから物語の世界への移行という、村上にとっての大きな課題があったことが窺える。

風の歌を聴け

最初の長編小説で、『群像』新人賞受賞。この物語は1970年の8月8日に始まり、8月26日に終わる、18日間のストーリーである。

「僕」が「鼠」に会ったのは、この物語が始まる3年前。二人が大学に入った年である。1970年8月、21歳の「僕」は、夏休みを利用して故郷の港町に帰ってきた。その間、たいていは「鼠」と一緒に、友人のジェイが経営する「ジェイズ・バー」でビールを飲んで過ごしていた。

ある時、このバーで酔って意識を失くした女と知り合う。双子の妹がいるという「彼女」はレコード店に勤めている。彼女は左手の小指がない。また、「僕」は、昔あるレコードを貸してくれた女の子のことを探しまわったり、それまでに関係を持った女の子のことを回想したりしながら夏を過ごす。夏が終わり、「僕」はまた東京に戻っていく。

誕生日の12月24日に、大学をやめて小説家を目指している「鼠」から小説が送られてくる。彼の小説の優れた点は、セックス・シーンがないことと、人が一人も死なないことだ。彼はまた金持ちの息子であり、それに我慢ができなくなることがある青年である。

「鼠」の小説に死や性描写がないことを優れた点だとしているのはある種の皮肉であると捉えるべきだろう。なぜなら、その後の村上の小説とはまったく正反対の世界だからだ。
村上にとって、それらは避けては通れないテーマであることは明白だ。また「鼠」が金持ちの青年であることも、村上のヒーロー像に反している。

この物語は今29歳の「僕」の回想となっている。古きよき時代を懐かしむようなレコードの歌詞や、ディスク・ジョッキーなどが盛り込まれているが、あらゆるものは通り過ぎ、誰もそれを捉えることはできないといった、「時の流れ」を意識した喪失感あふれる作品である。

カート・ボネガットの亜流であるとか、文体が翻訳調であるとか、いろいろと取沙汰されたが、読後感はそれまでに経験したことのない新鮮なものであった。それは、なんとも形容しがたいものでもあったが、今にして思えば、当時の時代感覚を見事に捉えていたように思われる。この作品は、1981年、大森一樹監督により映画化されているが、小説の全体の雰囲気を見事に描き出している。